私はクラスの中で浮いていました。長くアメリカで暮らしていた帰国子女の私は、日本の学校には馴染めませんでした。クラスの女子にはそれがお高くとまっている、と感じられたらしく、いつの間にか、クラス中の女子からシカトされるようになっていました。そして、あの修学旅行の日がやってきたのです。嫌われ者の私も、何とかお情けであるグループに入れてもらえたのですが、いざ現地のホテルに着くと「アンタは部屋に入るな!」と追い出されてしまいました。自分のバッグを抱え、部屋の前で呆然としていると、たまたま女子の部屋に遊びに来ていたらしい男子が「ひどいなあ。俺たちの部屋で良かったら来なよ」と声を掛けてくれました。一人で男子の部屋へ行くのは抵抗がありましたが、寝る所もないし断ったら男子にも嫌われてしまうと思い、彼の部屋へ行くことにしました。そして、これが間違いの元でした。部屋へ入るとそこには5、6人の男子がいて、みんなでこっそり持ち込んだお酒を飲んで、酔っ払っていました。そして、その中の一人が抱きついて私を押し倒してきたのです。男子たちは口ぐちに「どうせ、アメリカじゃやりまくってたんでしょ?」とか「レイプなんて日常茶飯事なんだろ?」とメチャクチャなことを言いながら、私の服を脱がしました。私はまだ処女で、男の子とは軽いキスくらいしかした事なかったのに。全裸にされると、むりやり大股開きにされ、写真をたくさん撮られました。それから犯され、口にもペニスを入れられました。部屋に居た男子が全員私を犯すと、今度は違う部屋の男子たちがやってきて私を犯しました。さらに、誰か終わると、他の回復した男子が再び私を犯すのです。一晩で10人以上の男子に数え切れないほど犯されました。3泊4日の修学旅行の間、私はろくに休めませんでした。夜は当然のように男子に犯されます。疲れ果てて眠ってしまっても、彼らは許してくれません。常に誰かが私の体を弄び、全く熟睡できませんでした。昼はバスの中でも男子の手がスカートの中に伸びてきます。観光地でも物陰でフェラさせられたり、ノーパンでスカートをめくらされ、写真に撮られたりしました。当然、女子にも知られ、私はますます嫌われました。入浴の時間には「オマエが入るとお湯が汚れるんだよ!」と言われ女湯に入れてもらえず、男湯に入るハメになりました。当然のようにソーププレイを強要され、お尻の穴の周りに石鹸を塗られて、お尻も犯されました。修学旅行が終わる頃には私のアソコは真っ赤に腫れあがり、顎はガタガタになっていました。写真もたくさん撮られました。当時はデジカメやカメラ付き携帯もなかったのですが、クラスの写真部員が現像しまくったのでした。修学旅行から帰ると私は「あゆみちゃん・修学旅行の思い出」とタイトルのついたアルバムを渡されました。中身は全て、私の恥ずかしい写真です。写真の一枚一枚に、『なんと、このときはまだ処女でした!』『フェラチオ上手になったネ』『ソーププレイに挑戦!』『4Pで大ハッスル!おちんちんに囲まれ嬉しそう』『名所××寺でオマ●コご開帳』などのコメントが、一枚一枚に添えられていて、最後の一枚は私が全身精液まみれになって、ぐったりしている写真で『これからもクラスの性欲処理係として頑張ってね』と書いてありました。そしてそのコメント通り、私はみんなの性欲処理係として日々を送るようになりました。人目を気にせず、公然と教室の隅でフェラさせる男子がいたほどです。遊びとして私をイカせることが流行ったこともありました。皆、本やビデオで研究し、私は教壇の上で股を開かされ、立て続けに絶頂を迎えました。気持ち良いどころか何度もイカされるのは苦痛でしかなく、心では嫌なのに感じてしまう自分に嫌悪しました。死にたいとも思いましたが、クリスチャンの私には自殺は許されません。何より、こんな酷い人たちのせいで、なぜ私が死ななければならないのか、人生を台無しにされて堪るか、と歯を食いしばり頑張って勉強しました。学校を卒業すると、私は即、渡米しました。今は出版関係の会社で働いて、充実した日々を送っています。でもまだ男の人は少し怖いです。
私はクラスの中で浮いていました。
長くアメリカで暮らしていた帰国子女の私は、日本の学校には馴染めませんでした。
クラスの女子にはそれがお高くとまっている、と感じられたらしく、いつの間にか、クラス中の女子からシカトされるようになっていました。
そして、あの修学旅行の日がやってきたのです。
嫌われ者の私も、何とかお情けであるグループに入れてもらえたのですが、いざ現地のホテルに着くと「アンタは部屋に入るな!」と追い出されてしまいました。
自分のバッグを抱え、部屋の前で呆然としていると、たまたま女子の部屋に遊びに来ていたらしい男子が「ひどいなあ。
俺たちの部屋で良かったら来なよ」と声を掛けてくれました。
一人で男子の部屋へ行くのは抵抗がありましたが、寝る所もないし断ったら男子にも嫌われてしまうと思い、彼の部屋へ行くことにしました。
そして、これが間違いの元でした。
部屋へ入るとそこには5、6人の男子がいて、みんなでこっそり持ち込んだお酒を飲んで、酔っ払っていました。
そして、その中の一人が抱きついて私を押し倒してきたのです。
男子たちは口ぐちに「どうせ、アメリカじゃやりまくってたんでしょ?」とか「レイプなんて日常茶飯事なんだろ?」とメチャクチャなことを言いながら、私の服を脱がしました。
私はまだ処女で、男の子とは軽いキスくらいしかした事なかったのに。
全裸にされると、むりやり大股開きにされ、写真をたくさん撮られました。
それから犯され、口にもペニスを入れられました。
部屋に居た男子が全員私を犯すと、今度は違う部屋の男子たちがやってきて私を犯しました。
さらに、誰か終わると、他の回復した男子が再び私を犯すのです。
一晩で10人以上の男子に数え切れないほど犯されました。
3泊4日の修学旅行の間、私はろくに休めませんでした。
夜は当然のように男子に犯されます。
疲れ果てて眠ってしまっても、彼らは許してくれません。
常に誰かが私の体を弄び、全く熟睡できませんでした。
昼はバスの中でも男子の手がスカートの中に伸びてきます。
観光地でも物陰でフェラさせられたり、ノーパンでスカートをめくらされ、写真に撮られたりしました。
当然、女子にも知られ、私はますます嫌われました。
入浴の時間には「オマエが入るとお湯が汚れるんだよ!」と言われ女湯に入れてもらえず、男湯に入るハメになりました。
当然のようにソーププレイを強要され、お尻の穴の周りに石鹸を塗られて、お尻も犯されました。
修学旅行が終わる頃には私のアソコは真っ赤に腫れあがり、顎はガタガタになっていました。
写真もたくさん撮られました。
当時はデジカメやカメラ付き携帯もなかったのですが、クラスの写真部員が現像しまくったのでした。
修学旅行から帰ると私は「あゆみちゃん・修学旅行の思い出」とタイトルのついたアルバムを渡されました。
中身は全て、私の恥ずかしい写真です。
写真の一枚一枚に、『なんと、このときはまだ処女でした!』『フェラチオ上手になったネ』『ソーププレイに挑戦!』『4Pで大ハッスル!おちんちんに囲まれ嬉しそう』『名所××寺でオマ●コご開帳』などのコメントが、一枚一枚に添えられていて、最後の一枚は私が全身精液まみれになって、ぐったりしている写真で『これからもクラスの性欲処理係として頑張ってね』と書いてありました。
そしてそのコメント通り、私はみんなの性欲処理係として日々を送るようになりました。
人目を気にせず、公然と教室の隅でフェラさせる男子がいたほどです。
遊びとして私をイカせることが流行ったこともありました。
皆、本やビデオで研究し、私は教壇の上で股を開かされ、立て続けに絶頂を迎えました。
気持ち良いどころか何度もイカされるのは苦痛でしかなく、心では嫌なのに感じてしまう自分に嫌悪しました。
死にたいとも思いましたが、クリスチャンの私には自殺は許されません。
何より、こんな酷い人たちのせいで、なぜ私が死ななければならないのか、人生を台無しにされて堪るか、と歯を食いしばり頑張って勉強しました。
学校を卒業すると、私は即、渡米しました。
今は出版関係の会社で働いて、充実した日々を送っています。
でもまだ男の人は少し怖いです。